――20年も前になろうか,お元気だった更科源蔵さんに,「駅の近くにあったチャシ跡はどうなっている?」と聞かれたことがあった。――
東延江さんの「旭川街並み今・昔」(北海道新聞社編)
私は旭川に来てから20数年経ったが,初めて聞く話だった。旭川駅の近くにチャシ跡?
――宮下7丁目から4丁目にかけての小高い丘陵地帯で義経台と呼ばれていたが,鉄道の開通に伴い整地され,建っていた上川神社は6条7,8丁目に移転,チャシ跡も義経台という名も昔話の一つになってしまった。――(同書)
数年前のことだが,忠別橋のたもとの河原に,朽ちかけた木製の碑を見つけた。周囲は雑草が背の丈ほどに伸び,木柱は根元から折れて立ち木にもたれかかっていた。
木柱には
古跡義経台 坂東幸太郎
上川神社発祥之地 野村権作
昭和四十八年五月吉日建立
神楽自然保護会
旭川義経研究会
由緒 こヽ忠別川一帯四丁目より七丁目にわたり高台あり。義経台と称し古いチャシコツ(城跡で)、
和人来旭以前は先住民族特にアイヌ集会の場所で、
上川神社発祥の処(宮下通りの語源)でもあり鉄道駅
建設のため高台は崩しならされ、その北端の現在地に明治三十一年七月十六日旭川駅が開かれた。
とある。
有志が義経台と上川神社の跡として建てたものらしい。この木柱は再び修復し現在はきれいに建て直されている。
アイヌ民族のチャシ跡を義経台と呼ぶのは,アイヌ民族と和をなして人望があった人物として義経を祭ったという伝説を作り上げたということらしい。民族懐柔の意図があったという人もいる。勿論この義経は実在した源義経ではなく,架空の人物でなる。現代でいうとプロパガンダというところか。
そして,チャシ跡には1893(明治26)年上川神社が建立された。これより3年前の明治23年(1890)9月,旭川村,永山村,神居村が成立したところだ。
北海道神社庁のホームページによると
明治26年7月15日義経台(現在の宮下通4丁目より7丁目)に建立
市街予定地は記号で呼ばれ,「に」通4丁目から7丁目となる。
北海道官設鉄道が空知太(滝川市)から旭川まで開業したのが明治31年,この時に義経台は崩されたのだろう。
上川神社は明治31年7月6、7条通8丁目に奉遷(今の市役所向かい七条緑道付近か),更に明治35年12月宮下通21丁目に奉遷(公園),更に大正13年6月6日現社地神楽岡に奉遷して今に至っている。
現在地は上川離宮予定地で,離宮設定の騒動も明治22年のことだ。この頃の北海道は開拓の動きが大きくなっていたことが伺える。それにしても一旦鎮座した神々を何回も遷座させるなんて,ご神木を畏れ多いものと教わってきた私としてはお上の力に畏れ入る。
宮下通4丁目
教育委員会が建てた義経台跡の案内板が光る
後方JR北海道旭川支社前方JR利用者専用駐車場 チャシ跡の場所は現在のJR北海道旭川支社から西方に広がる旧国鉄官舎跡地になる。
チャシは上川神社になり,上川神社は鉄道に追われ,丘陵は崩され,国鉄は解体されてJRとなり,並んでいた国鉄アパートは跡形もない。平らにした土地に鉄路を敷き,今度はコンクリートで高架を築いている。これは義経台とどちらが高いのだろうか。こんなこと考えても無駄だが。
ところで,明治37年生まれの更科源蔵氏は旭川駅の近くのチャシ跡をどうして覚えていたんだろうか。その頃はどんな跡があったんだろうか。
<蛇足>
JR北海道旭川支社の裏口の看板は「鉄」の文字を使っている。印刷版下を制作するときは金へんに矢を作字するように注文される。金を失ってはいけないかららしい。が,この看板は「鉄」のままだ。
ホームページを見てもロゴタイトルだけ矢になっている。
新日本製鐵は徹底している。鉄は使わず旧字なのだ。