浅草に電気ブランを求めたらレッテルに合同酒精株式會社とあった。蜂葡萄酒
はちぶどうしゅ? 鍛高譚
たんたかたん? 旭川にも工場が…。電気ブランと旭川の深い関係を探る。
浅草雷門近くに神谷バーという酒場がある。レトロを求めて店を覗くと,入り口近くに食券を求める人でごったがえしていた。私はちょっと前のデパート食堂を
思い出した。デパート食堂は当時としてはモダンな内装で,ウェイターは黒い服に白いシャツ,黒の蝶ネクタイをキリッと締めていた。ウェートレスはフリルのついた白い前掛けをしていた。今は秋葉原の某店に居るやつだ。もちろんデパート食堂では「お帰りなさい,ご主人様」とは言わない。
結局混雑を避けて神谷バーには入らなかったが,真っ白な布の衝立など,当時の風情をそのままに残すよう気遣っているように見えた。この店でお目当ては「電気ブラン」であった。旭川の「
大雪の蔵」で以前特製ボトルを販売していたが,是非本物を味わいたいと駆けつけたのだった。だが,そこで目にしたのは「DENKI BRAN」と書かれたレッテルの下部に「合同酒精株式會社」の字。
「これって合同酒精?」
「はい,そうです。」
「合同酒精って旭川の?」
「旭川にも工場がありますね。」
わたくしはちんぷんかんぷんになって,その場を離れたのでした。
ちんぷんかんぷんになった訳の一つは,ガイドブックやインターネットの情報で,電気ブランは神谷バーのオリジナルカクテルと思い込んでいたからだ。本物を求めてやってきたところが,ゆったりとくつろぐ木造のバーではなくて,店内はごった返し,本物の電気ブランが「瓶詰め」だった,それもうちの近所の会社製だった。それでちんぷんかんぷん。
ところで電気ブランとは何か。一時流行った,あがた森魚の歌に
電気ブランというのがあって,文明開化の香りがするが,ちょっとうさんくさいところもあり,ひょっとしたらメチルアルコールを混ぜた偽焼酎かとも思ったが,それは濡れ衣だった。
…明治15年神谷は(創業者)は速成ブランデーを発売したが,当時流行したコレラに効くといわれてよく売れたらしい。東京に電気の供給会社「東京電灯会社」が設立されたのが明治16年である。神谷は速成ブランデーをさらに改良し,その即効性にあやかってすばやく新語の「電気」を冠したのであろう。
とにかく電気ブランデーは,酒精含有飲料に属し,生ブドー酒,ベルモット,ブランデーなどが入って,甘口で複雑な味わいを持ち,昭和のはじめまでアルコール度数は45度であった。(合同酒精社史)
明治15年といえば1882年,今から126年も前である。創業者神谷伝兵衛はこれより2年前に雷門近くで独立し,一杯売りの「みかはや銘酒店」を開店する。伝兵衛25歳だった。実に商才に長けた人のようだ。
伝兵衛は開拓の機運に乗り,北海道に目を向けていた。明治32年には今の合同酒精旭川工場となる土地を取得し,地元の馬鈴薯,玉葱をもとに酒精を製造するようになった。
…当時の旭川町は鉄道の開通(明治31年<1898>7月),第七師団の設置(明治33年<1900>4月)等で,将来の発展は約束されていたし,酒類製造も明治24年(1891)から清酒の実績がある。また,神谷は隣村東川村に農場を所有し,その地勢を知っていた。北海道の中央に位置し,原料,製品の集散に便利であり,上川盆地の気候は大陸性で,農作物の生育もすこぶるよい。(合同酒精社史)
こうして明治35年7月操業開始,明治26年創業の本所工場とともに神谷酒造の基幹をなすことになる。
大正12年の関東大震災が神谷を窮地に陥れる。この対策が小樽の野口商店が当時の本宅秀映荘(現
和光荘)で諮られ,野口家が購入し,旭川工場を有した神谷酒造株式会社は解散,神谷バーなどの再建に専念することになる。
…神谷酒造は大正13年(1924)旭川工場を譲渡した資金で関東大震災による消失工場本所工場や雷門の旧本店ビル(神谷バー)を再建し,以来本所工場,牛久工場その他でアルコール,焼酎,合成清酒および葡萄酒,電気ブランなど伝統ある製品を製造していた。(合同酒精社史)
その後太平洋戦争などを経て,企業の集散,酒税法の変遷などに翻弄されながら,それぞれ複雑な道のりを辿って今日に至る。現在合同酒精は北の誉などとともに
オエノンホールディングズに集結し,神谷の原点は
神谷バーとして浅草に輝き続けている。
結局,電気ブランを合同酒精旭川工場が作っているのではなかった。だが,神谷と旭川には100年を超える長い関係があったのだった。
浅草の神谷バーを後にして,その足は導かれるようにウィンズ方向へ,路地の両側の立ち並ぶ屋台風居酒屋で煮込みをつつきながら,なみなみとつがれた電気ブランを舐めてみるのであった。地元の産物を大量に加工して送り出すことに北海道はふさわしかった。ニシンは浜で大量に煮られ,肥料として全国に送られた。戦前は和寒で除虫菊(香取線香の材料)が栽培された。地元に綿花を栽培させ織物を紡いだ北紡,ヒマワリ油を製造していた旭油脂などが興き,消えていったことに思いをはせながら,浅草の夜は更けていくのだった。
引用 合同酒精社史 合同酒精株式会社 昭和45年12月25日発行