旭川丸井は商店街や市民の願いを袖にして,7月20日上川神社祭の日に閉店となりました。ショーウィンドウには板が打ちつけられ,大きな図体が淋しげな姿となっています。旭川丸井も長いこと旭川市民に親しまれ,行政や市民の支持を受け,一等地に店舗を拡大してきたことを聞くと,なおさら旭川市民の無念さが伝わってきます。
旭川育ちでない私には旭川丸井より,青年時代を過ごした室蘭の丸井のことが気がかり。しかし,室蘭丸井も来年1月で閉店と聞いています。
室蘭中央町丸井跡,現在室蘭プリンスホテル
今を去ること30年前,私は室蘭で飲食店に勤めていました。丸井の1階にあった肉店にボンレスハムを仕入れに行かされるのです。アーケードに市場があり,他にも仕入れられる肉屋はあるのですが,そこのハムがお気に入りのようです。ハムって肉屋(小売店)で作っているのでしょうか。私には同じように見えるのですが,とにかく室蘭丸井の肉店にハムを買いに行かされました。今のように食料品は地下ということはなく,1階の隅に冷蔵ショーケースが置かれていました。そのとき客だった私は,その後食料品卸の会社に転職して今度は業者として丸井今井に出入りしました。
幕西の坂をちょっと上がったあたりから奥に入ると業者用の搬入口があって,そこから荷物を台車に降ろし,エレベータまで運びます。業者は例え少量の荷物でも表玄関から入ることはありません。エレベータは以前はお客様だったようで,凝った飾りが付いたままでした。このエレベータ,自分で運転するんです。ボタンを押して何階へというのではなく,網のような伸び縮みする柵と,ドアをしめて,施錠して,ハンドルを回して昇降させ,所定の階に近づいたら減速,停止させるのです。エレベータと床がピタリと同じ高さにしないと,台車が通らないので,初めは何度もやり直ししました。
今でもデパートはそうかもしれませんが,裏側は暗く,荷物が乱雑に積み上げられていて,とても表のきらびやかな雰囲気を想起できません。狭い通路を通って売り場に通ることもありましたが,まず売り場責任者に会わなければなりません。売り場にいないとき,狭い迷路のような通路を通って休憩所に行くと,デパート店員たちのきらびやかな姿に見つめられどぎまぎしたことを覚えています。
そうこうしてうちに若い店員と知り合いになりました。彼女が早晩だったある日,配達の車で家に送って行きました。母恋の駅から坂を上がったところにあったその建物はまるであばら家のようでした。雨風に晒されて生気を失った板壁,壊れたまま放置された造作,どこから入るのかわからない玄関。デパート店員のきらびやかな服装や物腰との大きな隔たりに驚きました。しかし暖かな生活感が漂い,中から家族の優しい声が聞こえました。考えてみれば母恋の坂にへばりつくように建っている木造の家は似たようなものでした。デパート店員ということで勝手な想像をして勝手に落差を感じていたのでした。
間もなく私は転勤で室蘭を離れ,その後室蘭丸井は中島町に移転しました。新しくなった室蘭丸井を一度訪れましたが,彼女はいつもの笑顔で接客していて,私はエスカレータで移動しながら,なんとなくほっとしたのを覚えています。
室蘭丸井が移転する前の通りは札幌通りと言ったのだそうです。わたしは今年になって知りました。この先札幌に通じる道路ということでしょうか。室蘭丸井の隣には丸十という八百屋があって,料亭などに高級野菜を卸していました。
東陽軒の跡の文学看板から
確かカステラを看板商品としていた。
向かいには東陽軒という木造のしゃれた洋菓子店があり,着物のしゃれた女将が店に立っていたのを思い出しました。この店は解体され更地になっています。中央町アーケード街は朝は配達の車や台車の音が響き,10時から歩行者専用道路となるころからどこともなく人が集まってきて,向こうは見えなくなるほどでした。市場,飲食店が混在していたので夜遅くまで電気がつき,人の声がしていました。
今は2階窓の上にあった中央町アーケードもすっかり取り払われ,名残惜しむかのようにいくつかの店のあんどんがぼつんぽつんと点いています。
タイトルのマークは1980年ごろの関連会社の方の名刺からスキャンしました。井の字の払いがはねているのが特徴です。
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(嶋福朗記者)