廃トーチカから銃眼が不気味に覗く。
美瑛の畑を横切る道路の傍らに
トーチカが残されている。トーチカはドーム型のコンクリート作りで,銃を出すための小さな窓銃眼が開けられている。トーチカは丘をめがけて進攻する歩兵を銃眼から小銃などで迎え撃つ施設なので,トーチカを攻略する訓練を行なったのだろう。トーチカは死角が多いので互いの死角を補助するように多数並べたというから,近辺にはまだ何基かのトーチカがあったものと思われるが,他には確認できない。この廃トーチカも草に覆われていて見つけることは難しい。
門柱,後ろの建物は美瑛小学校
美瑛は美瑛駅から北側の広大な地域が旧陸軍の演習場だった。駅から近い美瑛小学校は演習場の宿泊などの施設だった。小学校のグラウンドに残されたコンクリートの門柱がその名残だ。
「明治40年2月14日陸軍演習場規則の発布に伴い、旧陸軍第7師団美瑛演習場が、同年美瑛村字美瑛原野(現在の新星、福富、水沢、三愛と美馬牛の一部)の丘陵に創設された。
歩兵、砲兵の戦闘射撃訓練を目的とした演習場は 6728.92haに及び、併せて歩兵1個連隊を収容する衛戍
(えいじゅ)地(兵舎12、連隊・大隊本部2、炊事場3、厩舎7、浴室3、診断所1、酒保1、衛兵所1、弾薬庫1、主管官舎1、標的庫1、敷地面積14.08ha)を擁していた。
(美瑛小学校前文化財解説)
西木正明「凍
(しば)れる瞳」では美瑛駅前の旅館の様子を次のように描写している。
……掃除があらかた終わった午後6時前、目の前の美瑛駅に列車が到着した。……背中から声をかけられ、ふりむきざまに顔をあげると、真紅の夕焼け空を背に、なかば影絵のように軍人がふたり玄関先にたたずんでいた。
……美瑛の郊外には、師団山と呼ばれる広大な演習地がある。兵舎までそなえた練兵場で、旭川師団の各部隊が常時ここで演習を行なっている。演習の前には、かならず若手将校か下士官が下準備のため先遣隊として美瑛にやってくる。彼らはたいてい藤堂旅館に泊まったので、良子は子供の頃から軍人のこまかな階級の違いまで見分けることが出来た。今夜宿泊するふたりも、近くはじまる演習の先遣隊に違いない。
そうして,敗戦。帝国陸軍は解体される。この小説「凍れる瞳」で,先の青年将校は戦犯として処刑されてしまう。
「終戦後,演習用地は食糧増産のための集団帰農者や復員軍人,海外引揚者,戦災者などの緊急開拓地として入植がすすめられ,「師団山」と呼ばれていた演習場も「平和郷」と命名された。」
(美瑛小学校前文化財解説)
終戦後の開拓もなかなか進まなかったようだ。長いこと演習場として使われていたから原生林の開墾という作業は少なかったにしても,土地は痩せていただろう。演習には適したかもしれないが,なだらかな丘の連続が開拓者を悩ませたに違いない。力を合わせて灌漑用水を確保しようとした事が水沢ダムや北西の丘の碑や,丘を走る水路にうかがうことができる。
今は周囲がなだらかで豊かな作物におおわれ,色とりどりの服装で観光客が訪れるのどかな畑作地帯で,往時ここを土まみれになってカーキー色の軍服の歩兵が訓練に勤しんでいたとは思えない。
大きな観光施設があるわけでもない,丘に露天風呂があるわけではないが,観光客が絶えないのは,丘のやわらかな曲線と青空や雲や林が心を和ませ,うまい空気とうまい農産物に舌つづみを打つ根源的な楽しみが満たされるからだと思う。
初夏の水沢ダム
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(嶋福朗記者)