これはニュースでも何でもないが,この頃の葬儀は靴を脱ぐことなく,席も椅子がほとんどだ。住まいが洋式化しているのに加え,足の悪い老人対応だという。以前は座敷に座っていたので,坊主の話が長いと,痺れる足をもぞもぞさせてものだが,この頃は坊主の話も短いように感じる。
私が社会人になった昭和50年頃は,葬儀は町内会館が普通だった。町内会やら会社関係者ら大勢手伝いに行って,通夜の後はお茶を飲みながらしばし思い出話などをして,三々五々引き揚げたものだ。通夜に黒服を着てなかった会葬者も多かったように思う。先輩に,背広に喪章をつければいいのだと言われた。
初めての葬儀の手伝いは下足
(げそく)番だった。会葬者の下足(履物)を預かって下足棚にしまい,帰りに靴を渡す係だ。預かった控えに下足札というのを渡し,帰りにその札で下足を出してきて渡すことになっている。ホテルのクロークの様な仕組みだ。葬儀社の用意してくれた葬儀委員セットには下足札が,入っていた。荷札に半券がついたようなものだ。半券をちぎって渡し,札は針金で靴にしばっておく。他人の靴をはかないようにする心配りか。その昔は下駄か草履で区別がつかなかったということか。
次の葬儀では弔電を読み上げる係となり,じきに司会もやることになった。さすがに坊主の代わりはしなかったが,みんなで手伝って葬儀をするのが習わしだったということだ。茶菓子や食事の用意は近所の奥さん方が行ない,留守宅の留守番役までいた。買物は通帳を使い,近所の商店でツケで購入する。現金で払って領収書をもらってくるのではない。告別式が終わって,親戚が焼き場から戻ってくるまでに全部清算するという仕組みと会計係の見事な捌き方に驚いたものだ。
さて,この下足札はどうやって印刷していたのだろうか。当時は活版印刷だ。刷るたびに数字が上がっていくナンバリングという機械はあっても,こんな大きな活字のものはない。印刷するときは1,51,101,151,201,251と大きな活字で組んで,例えば100枚印刷して,次に2,52,102,152,202,252でまた100枚印刷というふうに50種類印刷。印刷した用紙を数字の順に重ね変えると1〜50,51〜100,...251〜300という風な100組の印刷物ができる。しかし活字も潤沢にあるわけではない。50回も版を取りかえるわけにもいかない。重たい版を取り換えるよりも機械の上で活字を取り換えては印刷,取り換えては印刷と言う風にやっていたのだろう。
DTP導入当初パソコンで簡単なプログラムを作ってオフセット印刷用の版を作ったことがある。活字と比べて大量の版が必要だったが,版を繰り返し使えるので合理的にはなった。しかし折角作った版下も,下足札を使わなくなって用がなくなってしまった。今作れといわれればオンデマンドプリンターでどうにでもなるのだが。
蛇足になるが,料亭政治の時代,下足番というのは実に重要な仕事だったらしい。政敵や新聞記者に誰が来ているのかわからないように,玄関を使う時間を調節し,下足によって足がつかないように下足番が管理する。それでいて客が帰る時はその人の下足が玄関に置いてあるようにする。客は料亭を独占しているかの錯覚に,また他の人同士の秘密を守るという役割も見事果たしていた。凄腕の新聞記者は下足番を抱き込み,下足番部屋で息をひそめてターゲットが出てくるのを待つというドラマもあっただろう。尚,この料亭の下足番はプロ中のプロだから下足札は使わない,と思う。
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(嶋福朗記者)