江口日曜堂は宝の山である。店舗自体もほうろうの看板やら万年筆のポスター、皇太子ご成婚の「東京新聞」などがきれいに陳列されている。それを眺めているだけでもワクワクしてしまうが、裏には未整理のなにやらが大事にしまってあるらしい。時おり妙なものが見つかると電話が掛かってくる。私は元より昭和初期の印刷とか見ながらああだこうだと裏付けのない推理を働かせるのが好きなものだから、ついおじゃまをしてしまう。店主江口健二氏は白髪も立派な歴史を感じさせるお人である。「他の店にないものはある、他の店にあるものはない」と豪語するが、そのことは皆さんの目で確かめるといい。ただし、骨董品店ではない。れっきとした画材と文具のお店である。(キッパリ)
旭川驛汽車發着時刻表
最初に出てきたのは、旭川駅の時刻表。昭和20年11月20日改定とある。終戦直後のもので、薄い用紙に活版印刷されている。
本数の少ないこともさることながら、函館や根室直行便がある。SLのすすの匂いがしてくる。
北海道行啓紀念
一緒に見せてくれたのは豪華な絵はがき。
印刷が多色刷りなのに加えて縁と鈴蘭の絵にエンボス加工(型押し)がしてある。彫刻型でエンボスが深い丸みを帯びているとても素晴らしいものだ。
東京今川橋青雪堂作成。なぜか切手の部分は「小樽」と印刷されている。押してあるスタンプは帯広と読める。北海道行啓紀念(今は記念と書く)と読める。日付はどうやら44-9-2、明治44年9月2日と思わる。大正天皇が皇太子時代に北海道行啓したときの記念絵はがきのようだ。この行啓のことは春光台千代の山公園(8月31日)や旭川東高校(9月1日)の碑が残っているという。(管野逸一「旭川の石碑」)
地図は北海道の行政区分が色分けされて、旭川は石狩国であった。鉄道はようやく釧路までのびているが、札幌からは一旦北上して、旭川経由しないと行けない。石川啄木がこの線路を使って釧路に赴任したのは明治41年1月のことだった。
もう1枚きれいな絵はがきが出てきた。旭川郵便局内旭川遞友会發行(逓友会発行)と印刷されている。内国1銭5厘外国4銭とある。周囲にやはり、きれいなエンボスがかけられている。
これも皇太子殿下北海道行啓紀念とスタンプが押されている。招魂社(今の旭川護国神社)前を赤い線が引いてあり、電車は戦後ようやく認められたと聞いているのでおかしいなと思ったら、馬鉄のことだった。練兵場の北の方に「御旅館偕行社」と印刷されている。皇太子はここに泊まったことになっているので、この葉書自体行啓記念に作られた物のようだ。
旭川市全圖
さて後日、地図も見せてもらった。
残念ながら発行年が印刷されていない。陸軍の文字が見えるので戦前なのは間違いない。師団線全通し、牛朱別川の工事は終わっているので昭和7年以降。
国民学校とは書いていないので昭和16年以前、市立中学(現北高)がないので昭和15年以前、市立旭川病院が診療所なので昭和12年以前、北都女学校とあるので昭和10年以前、と推測すると昭和8または9年のものと思われる。招魂社が招魂場とも呼んだんだろうか。
旭川市を中心とせる名所交通鳥瞰圖
巻物のように巻き込んで、きちんと表紙を付けた観光マップが見つかった。「旭川市を中心とせる名所交通鳥瞰圖」(昭和5年旭川商工会議所発行)とある。
この絵地図は鳥瞰画の第一人者吉田初三郎の作となっている。裏面に観光名所の解説があり、表紙は初三郎によって層雲峡が描かれている。同様のものが
国際日本文化研究センターに保存されていることがWEBでわかる。(WEBでは旭商工会議所になっているが。)絵柄は全く同じだが、表紙の裏面が違っている。ふたつのバージョンが発行されたようだ。
江口さんは、鳥瞰の具合があまりにもすごいのに驚くとともに、大雪山の山々の名称が正確なのでもっと驚いたと。絵は旭川の町並みを立体的に書かれていて、ホントかなと思わせるばかりのリアルさだ。江口さんは旭橋が違うなといっているが、私は旭川の平地をのんびり走る汽車がかわいいと思う。
江口さんはこの地図部分を複製印刷し、希望者にお分けするとのこと。ただであげると粗末にされるからと、100円はいただくとのことだが、希望の方は江口日曜堂(旭川市6条通8丁目電話23-3989)へお問い合わせを。
■頒布は終了しました。手持ちはまったくないとのことです。
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(嶋福朗記者)