今日後半のスケジュール、気仙沼唐桑の本家、気仙沼市街に住む伯母夫婦宅へ、仙台に戻り盛岡の友人と食事の予定。友人に会うのが何時になる事やら…。
東北に住む親戚のもてなしはとても厚く、いつも恐縮してしまう。その為今回は親戚の誰にも連絡せずに伺い、会う事が出来ればさらりと近況報告して別れようと考えていた。お互い、元気な姿が確認できればそれで良いと考えていた。しかしその考えこそが甘かった事に後で気付くのだけれど。
一関から気仙沼までは、何処にも寄らずに遅れを取り戻そうとしたが、無理だった。道の駅を素通りできない人が隣に座っている。こちらの道の駅は大型店舗でご当地食材が大量に売られている。連休だという事もあるのか、何処もものすごい人出だ。その中を奥様は珍しい食材を探してあちこち歩き回るので行方不明になる。行き当たりばったりの旅は珍道中を繰り返し予定がどんどんずれ込んで行く。
気仙沼駅近辺は震災の影響は少ないように見えてほっとした。更に駅を左に見ながら市街を進み、気仙沼郵便局や市役所を越え右折した時、目の前の景色が一瞬理解できないくらいに変わっていた。見えないはずの海や港が目に飛び込んでくる。
次に港まで続いていた街並みが無くなっている事に気づき、その光景に釘付けになる。無言の車内を映画のワンシーンのように、音の無い景色だが広がっているようだった。
共徳丸
狭い道に駐車すると復興の邪魔をするような気がして、そのまま東浜街道をゆっくりと進んで行く。その先には舗装道路と信号機と電線が新設され、いつでも街を再生出来る準備が整ったような広大な空き地が広がっている。更に進むと「第18共徳丸」(330t)の姿が見えてきた。港から750mの陸地に打ち上げられたという大型漁船の姿は、とても悲しく映った。空き地の面積が広大なため、かなり近寄らないと大きさが実感できない。陸地にポツリと置かれた「第18共徳丸」の傍らで、震災で犠牲になられた多くの方々に対して祈らせて頂いた。
今ではこの船も解体され、その姿は無くなっている。
宿浦港
気仙沼市街を抜け本家のある唐桑に向かった。唐桑の宿浦港周辺は津波の傷跡が大きく残っていた。宿浦地区は高台にあった早馬神社だけを残して全てが流されたという。港では、新造船と思われる漁船の迫力あるエンジン音が響き渡り、ホッと救われた気持ちになった。
吾妻旅館の跡、仮設住宅が建ち並ぶ旧唐桑小学校跡を過ぎ、地福寺あたりから右手に上っていくと本家がある。祖父が福島県会津で医院を開業後、昭和17年に無医村であったこの地区に診療所を開き、以後72年ほどの歴史を重ねてきた病院だ。今は従妹夫婦が跡を継いで地域医療に取り組んでいる。
従妹夫婦は留守だった。しばらく昔の思い出と本家周囲の風景を重ねながら散策して、栃木の美味しいお酒と手紙を置いて、次の目的地気仙沼市街に住む伯母夫婦宅へ向かった。伯母宅は福美町の高台にあったため、震災の被害から免れていた。
今回の旅行で大活躍のカーナビ君には助けられた。初めて訪れる土地でも僅かな情報から目的地近辺に正確に導いてくれる。カーナビがあればこその東北の旅だ。カーナビ君に大感謝。
車を降りて振り返ると「あら?英樹ちゃん?」……伯母からすれば「英樹ちゃん」なのだが…60歳が目の前に迫っておる私にとっては、なんとも気恥ずかしい限り。隣で妻がうつむき加減にニヤニヤしていた。
それから先は、「なんで連絡して来ない。こちらに来る時は連絡しろ」と伯母の旦那様に怒られ、隣で時間を気にする妻には目もくれず、震災時の話もする事無く、最近起こった小野家での出来事をたっぷり2時間程話してくれた。頃合いを見計らってお暇させて頂き、夕刻の気仙沼を離れ急ぎ仙台へ。
仙台で待つ友人は、しびれを切らしている。
友人 「今、気仙沼か?…えーー?仙台着は何時になるんだ?」
私 「こっちが聞きたい。仙台には何時に着くんだ?」
友人 「……とにかく待ってるわ。」
私 「了解。」
この後、カーナビ君の大活躍で時間のロスも無く21時過ぎに仙台入りしたが、友人を5時間待たせる羽目になる。ホテルで再会した友人の疲れと怒りと複雑に混じった顔……。友人は盛岡から仙台までバスに乗って会いに来てくれた。16時頃仙台に着き私と連絡を取ったが、その頃は気仙沼の伯母宅で本家の話を山のように聞かされていたころだった。
最終日、石巻の伯母宅を訪問してから仙台を離れる予定で行動開始。既に気仙沼の伯母から「北海道から英樹ちゃんがお嫁さんを連れて訪ねて来てくれた。これから姉さんの所に行くはず」と連絡したらしく待ちわびていたらしい。
この日、仙台市内の道路は連休の影響をまともに受け、とても混んでいた。利府街道・三陸自動車道と走り続け、なんと間の悪い事にお昼頃伯母宅に到着。もう少し時間をずらそうかとも考えたが、飛行機の時間もあるし、多分話も長くなるだろうしと自分の事ばかり考えて玄関を開くと伯母2人が笑顔で迎えてくれた。そこへ、従弟がちらし寿司を3人分持って帰ってくる。これ以上悪い間があるはずがないと思える位の間の悪さ。
結局、何も用意していないからと伯母手作りの美味しい味噌汁を頂き、伯母2人と従弟が食べるはずのちらし寿司を頂き、更に味噌汁のおかわりを進められ、恐縮に恐縮を重ねた時間を過ごすことに…。お詫びにお土産の栃木のお酒だけでは足らないと、自分用に買っておいたお酒も受け取って頂き、時間泥棒を詫びたのだった。
石巻の伯母宅は、地震で家屋の一部が壊れただけで済み、皆怪我もなく元気な様子だった。東京で働いていた従弟は震災後実家に戻り、日本舞踊の師匠である伯母の手助けをしているらしい。もう一人の伯母は俳人で、弊社で「白梅」という作品集を出している。
おいとまする時も、「私はあなたの伯母さんだから」と固辞する私に強引にお小遣いを押し付ける姿は、昔とちっとも変らない伯母さんだった。
こうして、あっという間の東北の旅が終わる事になる。
仙台空港
震災直後から心の奥に何か引っかかるものがあった。
その引っかかりが、少しずつはっきりとした言葉になってきた。
会えなくなる前に東北の親戚に会いたい…
今回の旅の目的。
これだけでは、妻を連れて行くのは可哀想な気がした。
旨い具合に、栃木に住む長男に会いたいと言ってくれた。
結果的に、中途半端な旅になってしまったが
旅の始まりから終わりまで、心温もる旅になった事は間違いない。
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(おさらっべのカワセミ記者)