留寿都村が2月22日の住民投票で喜茂別町との合併反対が3/4に達したと報じられた。あのなつかしいルスツの村が合併に揺れている。

当時のリーフレット。大和観光が経営していたので大和ルスツ。下部には日本国有鉄道,その右には喜茂別駅とある。今は洞爺駅。下部左のイラストにはGOGO喫茶の看板がある。全頁はPDF版を。間に合わなかったのかリーフレットの山の写真は夏山。ゲレンデ越しに見える雪の羊蹄山はきれいなのに。
1972年,学生食堂のテレビは留寿都村にスキー場ができたと報じた。新聞の片隅に道南バスとリフト券のお得なセット切符と広告があったので,とりあえずバスに乗って,洞爺湖の道南バスターミナルに行ったというより,辿りついた。洞爺湖は小学校の修学旅行以来で,どのくらい時間がかかるのかもわからず,とにかく到着した。昼を過ぎていたように思う。閑散とした町はずれにターミナルはあった。今のように派手な広告塔があるわけでもなく,スキー場のポスター1枚も見つけることができず,スキー場が出来たというのは勘違いかとさえ思った。洞爺湖のバスターミナルで大和ルスツスキー場へのセット切符があることを確認して,自信を持った。だが,切符売場の小母さんは不審そうな表情で切符を売ってくれたので,それが今一気がかりだった。だが,私の方から不審に見えたのはこのバスターミナルだ。何かの施設を利用したらしくあちこち錆がでていたり,建てつけもよくなかった。とても有名温泉地のバスターミナルとは思えなかった。まあ,とにかく切符は手に入れたし,バスも来た。
スキー場はすいていた。広々として新しい設備で気持ちが良かった。だが,スキーパトロールのジャンバーを着た人がおぼつかない滑りだった。どう見ても近所の農家の方で,さすがに私の祖父のようにタオルでほおかぶりをしてはいなかったが。リフト係りも皆,地元の農家の人のようだ。なんかこう,のんびりしていた。

ホテルのリーフレット。スキー靴の型に抜いてある。向かって左半分2,3Fはボウリング場,右側の3,4Fが宿泊施設,1Fはレストランや管理事務所など。両面はPDF版で。
スキー場はラーメンとトン汁を販売する木造の休憩所しか知らなかったので,大きなボウリング場がある立派なホテルに入ってみて驚いた。本州客をあてにしてたのだろうか。後で蔵王に行って初めて知ったのだが,本州のスキー客と言うのはスキー,遊技場,レストランなどを愉しみにくるのだ。彼らはナイタースキーなどしない。夜はレストランや遊技場で愉しみ,昼も適当に滑って,レストランや休憩施設でだべっている。愉しみ方が違う。その頃の私はせっかく行ったのだからとリフトの動く前からゲレンデに出て,食事時以外はスキーを脱がない,夜は夜でリフトが止まるまで滑る,込んでいるので20本は乗れないが,とにかく滑りまくる。北海道ではみんなそうだったと思う。3時間も休憩してレストランでビールなんてことはなかったよ。(今の私は5本も滑らないうちに息が上がってしまうだろうけど)
初めての大和ルスツは遅く着いたのもあって,あとは次回の愉しみにして,早々と引き上げることにした。とは言っても,日は暮れ初めた。帰りのバスも,ローカルバスだ。スキー客用バスはなかった。当時は女性の車掌が乗っていた。どこから来たのかバスは結構込んでいた。スキーを持っているのは私だけだった。荷物も邪魔で申し訳なく,端に立たせてもらった。
乗り合わせているのは知人同士らしく,そう,田舎の会話で一杯なんだ。途中で乗ってくる人もいる。通勤バスくらいの込み合いになった。バスガール(!)の「次はどこどこ,どこどこ。お下りの方は合図願いま〜す」という声も遠くか細い。社内は熱気でむんむんしている。窓ガラスも湯気で曇っている。
途中のバス停でバスガールは大きな袋を積み込んで運転席の横に置いた。〒のマークが印刷されている。えーっ。郵便は乗り合いバスで運ぶんだ,ここでは。次のバス停では,待っていた人が弁当をバスガールに渡して頭を下げている。運転手も出発間際に軽く会釈,同僚の弁当か? 当時はまだ自家用車の時代じゃない。終バスの乗務員は歩いて帰るか泊まるしかない。そのための弁当なのか。社内では世間話が続いている。
そうこうして人々は二人三人と下車していき,終点の洞爺湖温泉バスターミナルについた時は数えるだけの客になっていた。
今も書きながら,これは夢ではなかったかと自分の頭を疑うが,あのバスの熱気,バスガールの遠くから聞こえるアナウンスがまざまざと甦っている。
この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になって苦そう!
(嶋福朗記者)