旭川平和通買物公園を創設した当時市長の五十嵐広三氏が5月7日に亡くなりました。内閣官房長官だった頃テレビで拝見するたび、官邸が近くなったと感じたものでした。謹んでご冥福をお祈り致します。
氏の功績は多々あるが、日本の北の果て、盆地に埋もれた元軍都を、商都旭川として日本中に再認識させたのは、買物公園誕生だった。あれから40を超す年を経たが、観光立地を目論む旭川市として、買物公園にシンボリックな看板がない。
鳴海邦碩氏は「買物公園のあした〜誕生40年」の講演の中で、観光地は人を集めなければならない、こうしたシンボルには人が集まる。というようなこと述べていた。実例として大学の一角にある大学名の大きく入った碑を学生達が囲んでいる写真を提示した。ここでいうシンボルとは絵文字のようなシンボリックサインのことではなく、ここが「旭川平和通買物公園」であると表示してある看板のようなものだ。観光地にある、○○峠とか○○展望台などと書いた看板である。観光に出かけた人は必ず写真に1枚は撮ってくる。ここが何なのかが一目瞭然だからだ。思い出がよみがえるような写真を撮りたがる。あるいは、この看板の前で記念撮影をするかもしれない。私どもの社員旅行の集合写真は必ず看板を入れる。看板がなければ、歓迎○○様御一行様とかかれた板を立てかけて撮影する。


私たちのまちに「平和通買物公園」が誕生してから30年になります。
幾多の困難を乗りこえ、壮大なプロジェクトを実現に導いた関係者の皆様の努力により、旭川市は全国に誇りうる財産を持つことができたのです。その時の感動は、30年の歳月を経た今なお、色あせることなく私たちの心に刻まれています。
私たちは、まちづくりの原点として、前例のないことに果敢に挑戦するこうした精神を、しっかりと継承していかなければなりません。
都市は生き物と言われます。時代に応じて変遷を繰り返しながら、常に新たな命を吹き込まれ、個性や風格を磨き上げていくものです。買物公園を舞台に繰り広げられてきた数々のドラマもまた、より素晴らしいまちづくりを進めるための、貴重な財産となっているのです。買物公園のリニューアル工事は、新たな歴史の始まりであって、ゴールではありません。
”「買物公園」は、いつの時代にあっても、
私たちの「夢をつなぐ通り」であれ。”
私たちは、次代を担う子どもたちに、伝えていこうではありませんか。
平成15(2003)年3月
まっすぐ伸びた買物公園を背にシンボル看板の横で記念撮影をすると、後に「ここもシャッター街だったね。」「そのわりに人がいたね。」とか、「三六はこの裏だっけ」などと思い出がよみがえり、ドーパミンが出て、長生きする(と思う)。
明治41年、石川啄木は「曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。」(
雪中行)と書いている。今も曲がった道はなく、すっと買物公園が伸びている。
さて、旭川駅を降り立って、ここが有名な買物公園かと、記念写真でも撮ろうとしてもいい場所がない。捜してみると記念碑のようなものはあるのだが、写真には映えない代物だ。先般のリニューアルデザイナーは何もない空間こそ人を鮮やかに引き立てると思っているようだが、素人が記念に撮る写真に映るものくらい用意してほしい。人が集まりやすい形に。
右の写真を撮ったのは昨年の暮、イルミネーションが雪景色に美しい時だ。買物公園の入り口中央の円錐型のイルミネーションの前で、何人もの人が記念写真を撮っていた。もちろん、隣の30年記念碑には誰も目をくれない。
五十嵐広三氏の功績と彼を支えた旭川市民の熱い思いを記し、人々が集まるシンボル看板を設置してほしい、と思っている。
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この文章はメイリオをインストールしたパソコンではメイリオで表示します。私にはとても見やすい書体です。ただし,字体はVISTAと同じくJIS2004です。「飴」が旧字体になっておいしくなさそう!
(嶋福朗記者)